かや寺について
榧寺(かやでら)の由来
宗 派: | 浄土宗 | |
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宗 祖: | 法然上人 | |
開 山: | 普光観智国師 − 徳川家康公の師・増上寺中興・晩年榧寺創建 | |
本 尊: | 阿弥陀如来三尊 | |
守護神: | 秋葉大権現 | |
地蔵尊: | 厄除け地蔵〔高村光雲作〕・飴なめ地蔵・地蔵尊お初地蔵 | |
史 跡: | 国学、狂歌の石川雅望〔都指定史跡〕、日本画の勝川春亭、久保春満 梨園〔歌舞伎〕の市川九蔵 浄瑠璃〔女義太夫〕の初代・竹本綾之助、 相撲の大童山文五郎、横綱安芸海、錣山 洋画の安井曽太郎 評論の長谷川如是閑の生家 野球セリーグの鈴木竜二 等の墓がある。 |
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※ かや寺パンフレット: パンフレットダウンロード |
榧寺の歴史 榧寺縁起絵巻(区指定文化財)紙本着色榧寺縁起絵巻
今から4百年程前、1575年頃、浅草より少し下流の隅田川のほとりに、樹齢1000年の榧の大木が立っていた。そこには小さな庵があり、一人の僧が毎日村人たちと念仏をしていた。
ある日山伏がやって来て、榧の実を賭けて碁の勝負を申し出た。榧寺の僧が負け、山伏は榧寺の榧の木の本体を、遠江(伊豆半島)の秋葉山に移してしまった。翌年から伊豆の秋葉山の榧の木は、たくさんの実をつけた。
山伏は榧寺にやってきて、彼は秋葉大権現という火の神だと告白し、榧の実のお礼に、このお寺を火事から守る約束をした。また、この地がやがて国の中心になるだろうと予言した。
予言通り、江戸幕府が開かれ、将軍家康公の葬儀を執り行った観智国師が第一世となり、浄土宗の立派な寺が建てられた。
享保年間(1716-1736)の火事では、榧の大木が焼け、その根で秋葉大権現像が作られた。
その後何度も江戸は大火事に見舞われたが、寺の門前で火は止まり、沢山の人々の命が助かった。
この縁起は文化11年(1814)榧寺の檀徒であった石川雅望(国学者、狂歌師としての宿屋飯盛、文章家として六樹園の号あり)の書いた縁起並に文政4年(1821)に栗原信充が描いた絵をもとにして記述したもの。
絵巻は今もなお殆んど破損することなく寺宝として残っている。北斎の木版の裏には、写楽の大童山の絵が彫られている。
モデルの大童山の墓は榧寺にある。
お初地蔵縁起
大正11年(1922)7月2日、山本春吉の五女初(当時10歳)は、深川の松村関蔵宅にて養母の兼崎まきによって折檻を受け死亡。松村関蔵・兼崎まき夫婦は、それ以前にも、度々初を折檻し、27回にも及ぶ警察の説諭・指導を受けていた。
お初殺しの両名に対する傷害致死死体遺棄事件に関する初公判は、大正11年(1922)11月22日に開かれ、虐待の非情なまでの実態が明かされる。
お初の死を哀れんだ榧寺21世諦我上人が、供養のために「お初地蔵」建立し、遺骨が納められた。この事件は、継子(ままこ)いじめの芝居に仕組まれ、映画にも作られて、当時の庶民大衆の涙をさそった。終わりの場面には、お初の霊がこの世に現れ、鬼夫婦を苦しめるのがお決まりであったという。
落語「蔵前駕籠」の舞台となった榧寺
時は慶応4年、春はまだ浅き頃。所は蔵前通り厩橋橋詰め、榧寺そば。主役は遊び好きで突っ張っている江戸っ子。敵役は維新地に落ちた侍達。そして脇役は、客を乗せるのが商売なのに、自分も悪のりする駕籠屋。江戸っ子好みの茶目っ気溢れる中に、庶民の社会風刺が脈々と流れる、実話をもとにした痛快な落語である。
幕末の世情が混乱している頃の噺。
「我々は由緒あって、徳川方の浪人である。軍資金に困っている。吉原で使う金を、我々が清く使ってやる。」と言いながら刀を首筋にピタピタと押しつけられれば、身ぐるみはがされても命さえ助かれば、「ありがとうございます」と、お礼を言いながら逃げ帰ってくる。毎日のように追いはぎが出るので、蔵前通りを使っての吉原通いの客は暮れ六つ(午後6時)を過ぎると客足が途絶えた。
そこで、遊び好きで突っ張っている江戸っ子がひとり、女郎買いの決死隊が、蔵前の駕籠屋「江戸勘」に駕籠を出してくれとの注文に来た。「吉原が暇なときに行ってやれば、それはたいそう持てるであろうからどうしても駕籠で行きたい。」という。駕籠屋は必ず追いはぎが出るので、”暮れ六つ”以後は出せないと言ったが、チップをはずんで、何とか出してもらう事になった。
「駕籠屋さんも支度が有るだろうが、私も支度させてくれ」と男は言いながら、裸になり、着てきた着物はたたんで駕籠の座布団の下に敷き、その上にどっかと乗り込む、そして、出発。
天王橋を過ぎる頃、「旦那、ぼちぼち出そうですゼ。最初の約束通り、出たら駕籠をほっぽり投げて、逃げちゃいますからネ。悪く思わないで下さいョ。」。榧寺の近くに来ると、数人の追い剥ぎが刀を抜き、決まり台詞を言いながら、駕籠の中をのぞくと、「ん?既に終わったかぁ」
現在の榧寺
あの樹齢千年を越える大榧は失はれたけれども、その魂は秋葉の神の像となって残り、御本尊の脇に待して今も尚守り神となり430年の法燈を守っている。その後、大震災、戦火等の火災により、榧寺も幾度か火の災をうけたが、秋葉像の御守護の力か、ご本尊並に縁起絵巻、過去帳等災厄をまぬがれた。
第二次世界大戦争の災厄にあった本堂も昭和34年御佛の御加護と檀信徒並に有縁の方々の絶大なる努力により、壮麗な本堂が完成し、昭和44年にはかやの木会館が完成し、往時の大榧のあった時とはかわらず、堂々たる法輪を輝かしている。